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宝津院

静岡県静岡市の禅宗(臨済宗妙心寺派)のお寺です
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初心を忘れぬこと(2008/08/29)

子ども坐禅会

 静岡藤枝地区の臨済宗の青年僧の会、如水会で8月に 子ども坐禅会を行っています。 今年は50名ほどの小学生が参加し、お寺に宿泊し、坐禅を体験しました。子ども達に とって、良い思いでとなったことと思います。また、その中で学んだことが、わずかでも 心の糧となりえたら、これほど幸せなことはありません。

 坐禅会は参加する子ども達にとって「修行」であるとともに、それを主催する私たち にとっても「修行の場」であります。坐禅会で伝える重要なことは、その内容よりも、 ともに「行動する青年僧の姿」です。ゆえに私たちも身を正さねばなりません。

 考えてみれば、「身を正さねばならない」のはおかしな話で、常にそうあるべきです。 しかし、こういう時にはやはり「身を正さねば」と再認識します。そして、しばらくすると その心は忘れがちになります。その心を常に覚えておけないものです。

「しあわせ」を忘れること

 今ある「しあわせ」は忘れがちなものです。「日々の食事を不足なく取れること」これは、大変 大きな幸せなはずです。しかし、その幸せを感じることは少ないと思います。そして、それは少なからず 不幸なことです。また、幸せを感じれないことは、感謝の心を持てないことです。

 「子どもの学力低下」が言われ「ゆとり教育」が非難されたりします。「義務教育」の義務は「子ども」 ではなく、その周りの大人(主に親)に課せられたものです。子どもにとって「教育」は権利です。権利は 行使しても良いし、行使しなくても良いものです。「教育をうける権利」のある幸せを感じれないので、 簡単にそれを放棄できます。しかし、「教育をうける権利」は多くの努力によって確立され、維持される 貴重な権利です。

 失って初めてその大切さとしあわせを再認識することがあります。身内の死によって、共にすごした 時間にしあわせを感じるようなことです。そのしあわせをその時に感じれるならば、もっと心豊かに 暮らせるはずです。しあわせを感じれないのは、心が慣れて鈍感になっているからです。心に ある種の曇りがかかった状態ともいえます。その曇りを取り除くならば、世界はしあわせに満ち溢れた ものとなるでしょう。

初心を忘れないこと

 私たちの心は常に動いているので、「初心」をそのまま持ち続けることはできません。あるとき ふと今の生活にしあわせを感じたとしても、その感覚を留めることはとても難しいことです。

 心静かに自らのしあわせを見つめる時間を持ちたいものです。たとえば、「仏壇に線香をあげる時」 とか「子どもの寝顔を見る時」など人によって方法は異なりますが、そうして心の平穏が得られることが 大切なことです。