戒とモラルと美意識(2007/06/28)
戒
「戒律」という言葉がありますが、「戒」と「律」はどちらも禁止内容ですが、若干異なる考え方です。
その重要な違いは「そこに罰則が在るか」です。「律」は違反することに罰則が制定されており、
守ることを強制されています。「戒」は罰則はなく、外部からの強制力はゆるくなります。
臨済宗檀信徒にとって重要な5つの戒は以下です。
1 不殺生戒 生きとし生けるものを殺さず
2 不偸盗戒 他人のものを盗まず
3 不邪淫戒 淫らな行為を行わず
4 不妄語戒 嘘をつかず
5 不飲酒戒 酒を飲ます
しかし、これを厳密に守ることは不可能です。「不殺生戒」にしても他の動植物の生命を奪わねば生きて
行くことは出来ないからです。これらの戒を守ることが出来ないことは人間の生まれ持つ宿命です。しかし、
私たちは「戒」を守れないが事に懺悔の心を持ちます。そして、願わくば「戒」をなるべく保とうとする
意識を持ち続けます。「戒」を守れなくとも「懺悔の心」を持つことが、心の方向を正します。
また、「律」は行動(あるいは言葉)を制限します。「戒」は心も制限するものと思います。あるいは、
「行動となる原因たる心」を制限するといっても良いでしょう。だから完全を求めない「ゆるい制限」で
あっても、同時に常に持ち続ける「深く粗く強い制限」で在るべきです。
モラル
給食費の滞納など多くのモラル低下の事例が報道されています。私はこれらの事の象徴として故前松岡農林
水産大臣の「光熱費」問題が思い浮かびます。つまり「法律に書いて無いならOK」という考え方です。
あるいは、もう一歩進んで「現実に罰が無いなら、やっても大丈夫」という思考です。
一人一人の判断の総意として、社会全体がそういう方向に向っています。誰かが決めて動いているのではなく、
皆が個々に動いてるのですからこれを止めることは困難です。故前松岡農林水産大を首相が擁護しました。
国の首相にしてモラルに疑問があっては、さらに困難さを増すでしょう。
「モラル」というのは「戒」と似ています。「それを行っても罰則は無いかもしれないが守るべきこと」です。
それを皆が守ることで社会の方向は良い方向へ進みます。法で定める「律」ではなく、各人の「戒」によって
社会が保たれるならば素晴らしいことと思います。そして、そのための方法は他人のモラルを非難することではなく、
自らのモラルを向上させることです。個人のモラルの向上の総意が全体のモラル向上であり、個人のモラルの
向上がその隣人のモラルの向上となるものだからです。
美意識
私は「モラル」とは「美意識」だと思っています。自らの思う正義に従って行動することに誇りを持ちたいと
願っています。自分の美意識を持ち、それを行動の規範とすることが、自らの行動を正しく保ちます。「戒」は
昔から伝えられ、伝授するものですが、それを「自らの戒」として取り入れることで「自分の戒」となります。
論語に「心の欲する処に従って、矩を超えず」という言葉がありますが、それにあこがれます。自らの「美意識」に
従うことを意識する段階から、それが完全に自分と一体になる段階に進むことです。
各人の「美意識」は少しずつ異なると思います。その共通項として「戒」(あるいはモラルや社会マナーといった
社会の規範)が存在するのでしょう。逆に「美意識」を持つならば、「戒」は自然に守られるものであるようにも
思います。
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