幸せは自分の心がきめるもの (2006/05/17)
咲いた花を見て、幸せを感じること
「幸せ」と言うのは主観的な感覚です。同じものを見て、同じものを食べても
同じ幸せを感じることはありません。心は人によっても、時によっても異なる
ものだからです。時には、一輪の花を見て美しいと思う事、それだけで幸せに
なれる心を本来の私たちは持っております。
私たちは普段、心に多くのものを抱えて生活しています。抱えているものが
多すぎて、些細な幸せを見過ごして生きています。少し立ち止まれば、その
些細な幸せ見つけることはできるでしょう。
虫の音を外国の方は「雑音」として聞くとの事です。文化というか、育ちの
違いなんだろうと思います。日本人は「虫の音」を楽しんできました。現在の
若い方たちは、それを「雑音」として聞くのでしょうか。
空の青さ、雨の音、子供の体温、そういう些細な幸せを感じれることは、
やはり幸せなことと思います。少し立ち止まって、その幸せを感じることが
人生を豊かにする為に必要です。
少欲と知足
「少欲と知足」は幸せと成るためのキーワードです。欲望を少なくして、
満足する事を知ることが、幸せになるための方法です。
幸せは主観的なものですから、自分が幸せだと思えば幸せです。幸せの
ハードルの高いことは幸せを感じることを困難にします。「餓鬼」という
言葉があります。これはいつも飢えている鬼のことで、食べても食べても
満足することを知りません。欲望の尽きることのない人は、幸せな気持ちに
なることができません。
幸せの飽和
私たちはあまりにも幸せで、その幸せを感じれなくなっています。
おいしい料理を食べることは幸せですが、それが常にかなう望みであれば
感じる喜びは少なくなります。「叶う喜び」が少ないことは「欲する」気持ちを
希薄にします。
「欲する」気持ちが薄いことは「少欲」を意味するかも知れませんが、
「知足」を意味しません。どうも、「何かは分からないもの」を欲している
状態に思えます。そういう意味では「少欲」でもありません。
衣食住が足りることは、この上ない幸せだったはずです。しかし、足りて
しまえば、満足かと言えばそうでもない。では何が足りないかと言えば、
何が足りないのかは分からない。そういう状態が今の若者にはあると思います。
今の自分が幸せ
自分の状態が幸せであると感じれることが幸せです。
だから、「幸せは自分の心が決めるもの」です。幸せがどこに有るかといえば
今の自分の幸せに気づけるかです。
のどの渇いたときに飲む一杯の水のように、不幸の中にある幸せは気づきやすいです。
あるいは失ってみて幸せに気づくこともあります。
しかし、心の置き所を少し変えれば、どのようなときでも幸せは見つけられるものです。
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